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他者の“溢れ出る情熱”に価値を宿すことが、僕の“溢れ出る情熱”です——NEWPEACE・桐野遼の価値観

 

溢れ出る情熱を原資に、本当にやりたいことに打ち込んでいる人を見ると、うらやましくなってしまうことがあるかもしれない。そもそもそういう人は「出発点から自分とは違うのだろう」と考えてしまうからだ。

 

NEWPEACEの新卒一期生として入社した、桐野遼もそうだった。3歳からエレクトーンを始め、音楽漬けの青春時代を過ごし、日本大学芸術学部音楽学科に進学。しかし、音楽に対する彼の情熱は、周囲と比較するとどこか「平均的」なものだったという。

 

情熱を探し求めて、二度の海外留学へ。それでも納得のいく未来を描けず、三度目の正直で海外大学院へと進学すると、ようやく過去と未来が接続され、自分の情熱を見つける。

 

20年以上気付けずにいた桐野の“溢れ出る情熱”は、ブランディングを事業とするNEWPEACEに接続されることになる。

 

演奏家としての失意と自己探求としての海外経験、異国の地で出会った寝ても覚めてもコーヒーを淹れ続けるバリスタたち——。

 

桐野がもがきながら拾い集めたピースの数々に光を当てながら、NEWPEACEという会社の素顔、そしてここで働くメンバーの価値観を紐解いていく。

 

18歳の夏、盲信と熱狂の異なりに気づいた

 

──── 桐野さんの経歴を拝見すると、音楽に深く関係するキャリアを築かれています。いったいどうして、NEWPEACEへ?

 

音楽は僕のアイデンティティですが、それ自体で生きていくものではなかったのです。

 

幼少期から音楽に触れ、自分のキャリアは音楽を通じてつくられるものだと信じて疑わずに来ましたが、そうではないと20年以上かけて気付き、ようやく「本当にやりたいこと」を見つけられました。

 

新卒でNEWPEACEに入社する道を選んだのは、それを実現するためです。

 

──── 桐野さんと音楽の関係性について、ぜひ詳しく教えてください。

 

3歳からエレクトーンを習い始めましたが、母の勧めがきっかけだったので、自分で選んだわけではありませんでした。

 

ただ、たまたま得意だった。小学生の頃になると結果が付いてきて、他人に評価されることが嬉しい年頃でもあるので、徐々に熱を注ぐようになって。高校生にもなると、授業中でも譜面を書くぐらいには熱中するようになりました。

 

 

その頃には「自分は音楽の道で生きていく人間」だと本気で思っていました。たとえ好きで始めたわけではなくとも、エレクトーン以上に本気で向き合える対象はなかったので。

 

しかし、あるとき学校行事で靭帯を損傷してしまったことが、方向転換のきっかけになりました。エレクトーンは左足でベースを弾く楽器なので、演奏ができなくなったのです。

 

僕は心の底から落ち込みました。エレクトーンが弾けない事態にではなく、そのことに、それほどがっかりしなかった自分に対してです。

 

──── 実はそれほど、音楽に興味がなかったと気付いた……?

 

一瞬、そう思いました。でも、たしかに音楽は好きだった。そこで気付いたのは、「音楽は好きだけれど、演奏することに対して熱狂しているわけではない」ということです。今となってはそれも正確ではないのですが、当時の自分にとっては素直な気持ちでした。

 

演奏のプロになりたいわけではないけれど、それでも音楽が好きな気持ちは変わらない。そうであれば、演奏と同時並行で興味関心を深めてきたけれど、まだ没頭したといえるほど時間を投下していない、音楽をプロデュースする道にシフトしようと考えを変えました。

 

 

大学に進学したのは、我流ではなく、学術的な智の背景を持ったうえで探求を行いたかったからです。のちに恩師となる川上央教授(現在は芸術学部長)に学ぶべく、日本大学芸術学部音楽学科に進学しました。この頃から、盲信ではなく、熱狂するものにコミットしようと慎重に判断を重ねるようになりました。

 

情熱を注ぐ対象の模索

 

──── 方向性を変え、大学に進学したことは、桐野さんのキャリアにどのような影響を与えたのでしょうか。

 

誰に学ぶかを考え抜いて進学先を選んだので、自分の選択に後悔はありません。ただ、新しい道ですぐに光が見えたかといえば、そうではありませんでした。

 

DAW(デジタルオーディオワークステーション)というデジタル音楽制作ソフトを用いた作品制作のほか、音楽比較認知学や音響心理学といったアートとサイエンスが交わる学術的な領域からも音楽を探求したのですが、この領域にも僕よりもよっぽど熱量を持った学生が平然といたのです。

 

 

たとえば演奏を録音するにしても、秋葉原に通ってケーブルを自作することから始めるような学生もいて。そこで販売されているパーツの素晴らしさは僕にも理解できますが、目をキラキラ輝かせながら魅力を語る彼らの姿を見ていると「自分はそこまで興奮していないな」と気後れしてしまいました。

 

彼らは音楽を狂ったように愛していましたが、僕は演奏することも、音楽をプロデュースすることにも、今ひとつ熱量を持てない——。環境や取り組みのアプローチを変えても、気持ちの面でついていけない感覚は消えませんでした。

 

──── 二度の留学を経験されていますが、背景には挫折も関係しているのでしょうか。

 

挫折もひとつのきっかけですが、それでも何かを探求したいという情熱は尽きなかったので、留学は希望的な選択です。

 

ケンブリッジ大学への留学は英語力と思考力をチャレンジングな環境で試すこと、シンガポールの南洋理工大学への留学は新しい情熱の種を探すことを目的としていました。

 

 

南洋理工大学への留学は、ロボティックスやファインアートなど、異なる専門性を探求する学生と共同して芸術制作を行ったり、映像の理論学習から、実際のキャスティング、撮影と編集まで一気通貫して行うコースの受講であったりと、専門領域を絞るというより、自分の幅を広げる期間だったと思います。

 

その期間、僕にとって重要だったのが、そこで出会った友人たちの存在です。

 

バックグラウンドが異なる仲間と毎晩のように酒を交わし、たわいもない会話から、それぞれが専攻する学問を拠り所にした「討論」ともいえるような会話までしていました。

 

そのとき僕はやはり、音楽を学んだ背景に立脚して会話をします。音楽の道には進まなかったものの、音楽に注いだ情熱は次へつながるのだと過去の自分を健全に肯定することができ、一気に視野が広がった感覚を今でも覚えています。

 

今の自分の根幹をつくってくれたのは、彼らとの時間と断言できるほどです。

熱狂的な情熱を世界とつなげることが、自分の熱狂的な情熱

 

──── 留学から帰国後、日本大学芸術学部を学科主席で卒業されています。就職せず、大学院に進学したのはなぜですか?

 

留学が終わる頃には、大学院への進学を決めていました。学術観点の関心や志はもちろんですが、シンプルにネイティブと互角に語り合えるだけの英語力があったわけではないし、深く語れるほど学問を極められたわけでもないので、関心のまま歩み続けることを選んだのです。

 

 

進学したキングスカレッジロンドン大学では、COVID-19下の人々の記憶をアートでアーカイブする手法について研究と制作を行いました。

 

この研究と制作において、音楽はあくまで手段です。音楽を追求するのではなく、音楽を手法として扱う研究に従事したことは、自分のアイデンティティを生かしつつ、それでいて微力でも社会に価値貢献できたと感じられた初めての経験になりました。

 

この研究と制作を通じて、どうして自分が音楽を好きなのかも明確になりました。音楽は、生きていくうえで絶対に必要ではないかもしれないけど、それでも人の心に豊かさを与えてくれる。そうしたものや存在が、自分は好きなんだと気付いたのです。

 

音楽は、楽しい瞬間をより楽しめたり、直視しなくてはならない課題に向き合う集中力を与えてくれたりしますよね。不要不急のものではないかもしれないけど、人間が彩りのある人生を送るためには、なくてはならないものだと思います。

 

自分の“好き”に気付けたのは、研究だけでなく、やはりロンドンでも友人の影響が大きかった。当時、ロンドンの東側にあるダルストンという地域でシェアハウスをしていたのですが、一緒に住んでいた2人の友人がバリスタで、彼らは寝ても覚めてもコーヒーの話をしていました。

 

僕には感じ取れないような些細な味の変化について永遠と議論し続けていて、ロシアによるウクライナ侵攻が始まったタイミングでも「僕たちにできることはコーヒーを淹れることくらいだから、明日も平和を祈ってコーヒーを淹れよう」と話をしているほど、狂気的にコーヒーを愛していました。

 

友人たちの熱狂に触れるとき、音楽に向き合っていた頃のようには落ち込んだりはせずに、僕には新しい景色が見えていました。それは、彼らのような溢れ出る情熱を社会と接続することだと。彼らが必ずしも社会との接続を目的にしていなくても、世の中に広く拡がることを目的にしていなくても、それをやる人が必要だと感じていました。

 

そのとき、やっと気が付きました。僕の熱狂の対象は「非合理にもリスペクトがある社会を築く」ことなのだと。音楽のプロデュースを学んでいた時点で感じつつも認識できずにいた気持ちに、世界中を遠回りして、多くのことを勉強・研究したことで、ようやく気付くことができました。

 

 

──── 「非合理にもリスペクトがある社会を築く」というビジョンの片鱗を掴んだことで、どのような仕事に就こうと考えていたのでしょうか。

 

ずばり、ブランディングのプロになろうと考えていました。掴み始めたビジョンの達成に向かうためです。

 

私は「非合理」という言葉で、生きていくうえで絶対に必要ではないかもしれないけど、それでも人の心に豊かさを与えてくれるものを形容しています。僕がなにより深く関わってきた「音楽」という存在も「非合理」のひとつですが、こうしたものを最もエンパワーメントできるのは、ブランディングだと今も昔も考えています。

 

音楽以外にも、煙草やお酒、コーヒーといった嗜好品も、生きていく上で絶対に必要ではないかもしれないけれど、人々の生活に彩りを与えるものです。こうした「合理的ではないもの」が人々の生活に届くためには、その価値を届ける技術が必要です。

 

あるベッドルームで作曲された曲が、Spotifyで数十億回再生される。あるバリスタが厳選した豆が、都内のカフェで少し贅沢なコーヒーとして楽しまれる。それは、そのものが「優れているから」に違いありませんが、「優れているだけ」では達成されません。

 

ブランド価値を高めるプロになれば、秋葉原のパーツショップで目を輝かせていた彼らや、コーヒーを愛するバリスタの彼たちの才能や作品を、世に広めていくことができる。それは、私の情熱を実現するためのビジョンに近づく歩みでもあります。

 

「ブランディングのプロになれる環境にいく」というのが、長い学生生活を過ごした僕の結論でした。

 

ブランディングとは「判断軸」をつくること

 

──── 数ある選択肢の中で、NEWPEACEへの入社を決めた理由について教えてください。

 

ブランディングを事業にしている会社のなかで、最もビジョンドリブンに働くことができると感じたのがNEWPEACEだったからです。NEWPEACEの「価値観を仕事にする」というミッションは、自身が希求するビジョンと合致していました。

 

当時NEWPEACEは、“VISIONING採用”という公募型の新卒採用を実施していたのですが、そこにもミッションと首尾一貫する姿勢が貫かれていました。

 

 

この採用試験では、就活面接で鉄板の「自己PR」や「ガクチカ」はおろか、大学名も性別も聞かれません。新卒採用だけれど、年齢も30歳まで受けられます。その代わりに、ビジョンだけを聞く、というものでした。

 

「非合理にもリスペクトがある社会を築く」という自分のビジョンをコピーのように言語化できたのは、“VISIONING採用”の期間によるものでした。ロンドンで出会った狂気じみたバリスタたちとの出会いを通じて得た感覚を、納得感のある言葉に落とし込むことができました。

 

当時のNEWPEACEに、新鮮味と同時に一種の不安を抱えていたことも事実です。ちょっとだけ「きな臭いな」と感じていたのです。

 

ただ、先輩社員のほうから「うちをきな臭いと感じる心は正しい」と言ってくる(笑)。その人は、入社してすぐ僕の育成担当で、今では僕の直属の上司ですが、「きな臭さは、新しいものをつくるとき摩擦熱で生まれる。この臭いに気がつきつつ、新しいものを臭いが消えるレベルにまで作り込むことが大切」だとも話してくれました。

 

普段NEWPEACEがクライアントの皆さまにご提供している体験を僕個人が受けることで、事業会社でブランディングに従事する選択肢もあったのですが、「ブランディングのプロになる」という目標に最も近いと思えたのは、支援会社であるNEWPEACEでした。

 

新しさを恐れないことで、若くても知識・コミットメント・注いだ時間によっては、打席に立てる回数が明らかに多い。そうしたことも、NEWPEACEへの入社の決め手でした。

 

──── 現在はどのようなお仕事をされているのでしょうか。業務内容について、詳しく教えてください。

 

僕が所属するNEWPEACEのブランディングユニットでは、クライアントの皆さまへ「ビジョンを基軸とした独自メソッドのブランディング(VISIONING®︎)」を通じたご支援をしています。チームの言葉で表現するなら「ブランドの判断軸をつくる」仕事です。

 

ブランディングは、顧客の印象をデザインする仕事です。しかし、顧客の印象は直接はつくれない。顧客の印象をつくる程の、一貫したブランドを立ち上げるためには、やるべきことは「判断軸をつくる」こと。顧客の印象を徹底的に考えながらも、自分たちの判断軸を見直し、戦略づけることこそ、ブランディングでやるべきこととNEWPEACEでは考えています。

 

どのようなときでも、「いいものだから伝わりさえすればいい」と考えてしまわずに、それが理想ほど達成されていない原因である、経営課題を突き止めることから始めます。目指すべき遥か先の未来を設定し、そこに至るための判断軸をつくるのが、僕たちの仕事です。

 

──── 答えの存在しない業務であり、求められる成果のハードルが高いように感じます。どのような点に、やりがいを感じますか。

 

私たちが提案したブランドの判断軸から下される経営判断は、会社はもちろんですが、会社に所属されている方の未来にも大きな影響を与えます。また、我々が伴走するクライアントは、経営者を含め、法人のビジョンの先導を切るプロフェッショナルです。情熱に溢れるクライアントと対峙する上で、自分がどのような価値発揮ができるかは、どのような細かいプロセスでも常に問われるため、常にプレッシャーを感じています。

 

 

ただ、伴走させていただいたクライアントに感謝していただいた瞬間には、説明しようのない感動が湧き上がってきます。学生時代に悩み抜いて見つけたビジョンが、ひとつ達成された気がするからです。僕のやりがいは日々のモチベーションの目的ではありませんが、強いていうなら、この感動こそがやりがいなのかもしれません。

わたし目線ではなく、プロジェクト目線

 

──── これまでに「ビジョンを達成できた」と感じられた仕事のエピソードを教えてください。

 

まだアシスタントだったころの話ですが、BtoB受発注マッチングサービス「PRONIアイミツ」を運営するPRONIさん(旧社名ユニラボ)のリブランディングプロジェクトです。メインディレクターたちが侃侃諤諤とやるなかで、ロゴの卵になるアイデアを提案することができたときのことは、今でも仕事の核として大事にしています。

 

 

僕がプロジェクトにジョインした頃、「プロに出会う。プロになる。」というブランドアイデンティティ、PRONI株式会社という新社名、「PRONIアイミツ」という新サービス名など、重要なコンセプトは既に決まっていましたが、ロゴが開発途中でした。

 

既に100案を超える案がでていましたが、ロゴの最終決定にあたってそこからさらにもう一歩「プロに出会う。プロになる。」というコンセプトに迫ろうと、プロジェクトに関わる全てのクリエイターが集い終業後時間無制限でブレスト会をすることになりました。YES and で否定厳禁、アイデアの数を出すことが目的の時間だったので、アシスタントである自分にはプロジェクトに貢献するチャンスだと思いました。

 

まず僕は、ブレストでフルスイングをするために、フロントでプロジェクトを先導するメインディレクターの思考や、動きを観察し続ける日々を過ごし当日を迎えました。

 

そして、彼らが「不可能を可能にする」というコンセプトについて、そのモチーフを議論しているときに、「ペンギンって決して飛ばないですよね。不可能を可能にする、ペンギンはどうですか?」と勇気を持って発言をしたんです。

 

すると、アイデアを聞いたディレクター陣がその話を種として、アイデアを次々と積み上げていき、現在のロゴの形へと育ちました。

 

──── サービスを象徴する「ロゴ」の原案を提案するというのは、非常に大きなバリューですよね。

 

そんな私にも、今では部下がいます。私はよく「漏れた打席でフルスイング」というチームの行動クライテリアの大切さを、彼ら彼女らに経験をもとに話すようにしています。その日は、漏れてこそないものの、常に自分からフルスイングできる機会を探す大切さに気づけた1日でした。

 

ただ、そもそも入社1年目だった僕に、これだけ重要なプロジェクトのなかで発言権があること自体、とても稀有なことだと思います。多くのディレクターが所属するNEWPEACEでは、ディレクターの裁量を、肩書きや年次ではなく、どれぐらいのケイパビリティで、どれぐらいの時間、プロジェクトへ思考を費やしたかで決定しています。

 

それはつまり「自分目線」ではなく、どれほど「プロジェクト目線」になれたかを問う環境であるということです。故に、最も考え抜いたということをアイデアを通じてメンバーにプレゼンテーションすることができれば、アシスタントであっても関係なく、そのアイデアは健全に尊重されます。

 

NEWPEACEにはとても真似できないと感じるような力を持つトップディレクターがいますが、たとえアシスタントであっても、オーナーシップを持ち、考え抜き、やり抜くというスタンスを持つ方であれば、平然と打席が回って来る環境だと思います。

 

──── ブランディングを軸にクライアントへの価値提供を志向し、成長を強く望む人には、最適な環境だといえるかもしれません。

 

おっしゃる通りだと思います。「プロジェクト目線」という言葉も僕はよく業務で用います。自分の持ち場で仕事をこなすことが重要なのではなく、どれだけプロジェクト、ひいてはブランドにインパクトをもたらすかが重要だということを表した言葉です。

 

なぜこのスタンスが重要かというと、私たちの最終提供価値は、単なるプロジェクトの進行ではなく、クライアントのブランドがつくり出す印象のためであり、その向こうにいるユーザーや顧客に印象を届けるためだからです。

 

その姿勢は、多角的に目の前の業務を捉える力、そして何より、協業をして1人ではなし得ないインパクトを残すという、ブランディングに限らず仕事をする上で大事な能力の向上につながるという点で、自身の自己成長性にも還元されると考えています。

 

伴走するクライアントのことを、そしてその向こうにいるユーザーや顧客のことを考え抜けるかが大事である。それは自己成長にもつながる。このスタンスや考えに共感するメンバーにはきっとマッチすると思います。そしてそれを心から歓迎する、ブランドディレクターたちと共に仕事をし、手にしきれないほどの成長の機会に溢れていることも、僕の経験から薦められることです。

 

 

──── 最後に、桐野さんが目指す、数年先の未来について教えてください。

 

僕にとってNEWPEACEは、現在の目標を達成するうえで、ベストな環境だと信じています。僕は、まだまだ発展途上です。だからこそ、誰が見ても、そして自分としても自信を持って「ブランディングのプロ」だと示し、認知される存在になりたいと思っています。

 

それを実現するための環境と道具は揃っているので、生かすも殺すも自分次第。「情熱」の接続先を見つけたひとりとして、自己のビジョン達成に向けても、ひとつでも多くの会社、ひとりでも多くの人たちをエンパワーメントしていけたらと思っています。


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